刃物の町、岐阜県関市

今から約700年程前の鎌倉時代に、九州から元重(もとしげ)という名の刀匠が美濃に来たおり、関の向山に良質な焼刃土があるのを発見しました。
更にこの付近には、栗、松炭が容易に得られるなど、刀剣鍛冶に恵まれた条件を備えている事が分かりました。そこで元重は、この地に移住し刀剣鍛冶を始めました。これが関鍛冶の起源です。
鋼の材料は遠く出雲国安来(島根県)より、馬で運ばれたともいわれ、その他関近辺の鉄鉱石を使ったとも伝えられています。

関鍛冶には多くの名匠が生まれ、中でも関の孫六兼元、志津三郎兼氏などは余りにも有名です。刀剣鍛冶が、最も栄えたのは室町時代で、この時の刀匠の数は、300人を数えたと云われています。
関の刀は、芸術性の高さに加え、「折れず、曲がらず、よく切れる」の優れた実用性を誇る名刀として、多くの武将に愛用されました。

時代が流れ、江戸時代の中頃には刀剣鍛冶も衰えて、一部の刀匠は包丁や鎌などを打つ野鍛冶にかわり、大阪や堺方面の商人と取引を始めました。これが関の打ち刃物工業の始まりです。
更に、明治9年(1876年)に廃刀令が布かれ、刀剣鍛冶のほとんどの人が、実用的な家庭用刃物や鞘物(さやもの)の生産に転向していきました。

明治20年(1887年)、福地広衛門が外国製刃物からヒントをえて、ナイフの製造を始めました。明治30年(1897年)にはカナダの貿易商が見本のポケットナイフを携えて来日して大量の注文をしました。これが輸出刃物発展の端緒となりました。
次第に、品質、デザインも良くなり、『 関のポケットナイフ 』と世界に認められるようになりました。

大正の中頃には金属洋食器の生産、昭和の初めには安全カミソリの替え刃の生産も始まりました。 現代では、この他厨房用品、爪切り、ハサミ、包丁なども全国シェアの多くを占めています。
中でも包丁は、全国の約6割を生産しています。

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